ローカーボ(低炭水化物)ダイエットの生みの親 ウィリアム・バンティング
Translation by Katsumi Yamada
低炭水化物(ローカーボ)ダイエットを今思うと、新たなある意味革命的と思うかもしれない。しかし、これほど誤った認識はない。私がこれが最適だと医者に言われてローカーボダイエットをはじめたのは1962年だった。
この「新しい」ローカーボダイエットは、先見の明のある有識の医療関係者によるものだと思うかもしれない。これまた間違い。真実は、もしこの19世紀のウィリアム・バンティングと言う名前のイギリス人大工がいなかったら、最もカロリーの高い食べ物といえる脂肪を食べて体重が減らせるなどと絶対に考えなかっただろう。
歴史上で名前が英語の動詞として恒久的に使われるようになったのは3人しかいない。第一はアイルランド人で1860年に英語になったキャプテン・ボイコット。もう一人はルイ・パスツール、そして三番目がこの記事の主人公で多くの人の人生(私もその一人)に強烈な影響を与えることになったウィリアム・バンティングである。
過去何世紀も標準以上に太っている人はある程度いたものの、病的な肥満は20世紀まで比較的稀だった。肥満は1980年までは低いレベルで安定していたのは間違いない。それ以降劇的に増加し始めた。1992年には十人に一人のイギリス人が肥満:その僅か5年後にはほぼ二倍に増えた。アメリカでは事態は更に深刻で、1991年には三人に一人が肥満だった。これはアメリカ人が「痩せる」のに毎年330億ドルという膨大な額を使っていたにもかかわらず、たったの10年で人口の8%に当たる数の増加だった。
信じ難いかもしれないが、これが肥満について知識、意識、肥満教育、栄養、運動がより多くあるにもかかわらず起きているのだ。摂取カロリーがここ10年で20%下がり、運動クラブが急成長したのに起きている。より多くの人が歴史上これまでにないほどカロリーを削っているのに、更に多くの人が肥満になっている。 今では、工業化社会全般に体重増加が流行になっている。
しかし、そうなる必要はなかったのだ。約140年 前一人の男がダイエットの考え方を完全に変えているのだから。全ては、栄養学者や医者ではなくウィリアム・バンティングという葬儀屋によって書かれた「市 民への肥満についての手紙」と題された小冊子から始まった。この冊子は、肥満について書かれたものではもっとも有名なものの一つになった。初版は1863年で、版を重ねて著者の死後も長く発行され続けた。この本は革命的で本来なら体重を減らすダイエットに関する西洋の医学的思考を永久に変える筈だった。
ウィリアム・バンティングは19世紀の社会で尊敬されていた。腕の良い大工で金持ちや有名人の葬儀屋だった。ただそれだけであれば、彼の名前は恐らく、仮に記憶されたとしても、ただのウェリントン公爵の棺大工としてのみ記憶されたことだろう。
バ ンティングの両親の家系には肥満の傾向はない。ところが、彼は30代になって体重が増え始めた。そこで、親切な個人的友人で著名な医師に相談したところ、 「毎日仕事の前に体を激しく動かす」事を薦められた。バンティングは、重いボートを持っていて川の傍に住んでいたので毎日二時間ボートを漕ぐことにした。 ところが、これはものすごい食欲を起こさせただけだった。体重が増えたので止めるよう助言された。運動はこれで終わった。
次 の肥満治療は「中くらいの軽い食事」だったが、それにどういう意図があるのか教えられなかった。彼によると、この結果体調は悪くなったのに体重は減らず、 不快な吹き出物ができてしまい、そのうちの二つは手に負えないほどだったといいう。彼は入院して手術は成功したが更に肥満になった。
バンティングは20年に20回減量のために入院している。彼が試したのは、水泳、ウォーキング、海辺の空気、「大量の薬や液体のカリウム(physic and liquor potassae)」、温泉水ではレミントン、チェルテンナム、ハロゲートの温泉、低カロリー飢餓ダイエット;週3回のサウナ風呂を1年間試したがこの間失ったのはたったの6ポンド(2.7kg)で体力はどんどん落ちていった。
彼は、「この国で最もできる医者の一人」と彼が呼ぶある医者に、体重が増えるのは全く自然なことで自分も毎年大人になってから1ポンド増えていてバンティングの状態は全く驚きではないと言いー「運動、サウナ風呂、洗髪と薬を増やす」とだけ助言した。
バンティングは医療専門家が考えられる全ての減量法を試したがどれもだめだった。がっかりして幻滅しついに諦めた。そして、太ったままだった。1862年64歳のウィリアム・バンティングは202ポンドで身長は5フィート5イ ンチだった。彼はさほどの巨漢ではなかったものの「いわゆる自分で靴の紐を縛れなかったし、人として参加すべき聖務に太った者のみが知る大変な苦痛を伴っ たものでした。体重で膝や足首の関節を痛めないように階段はゆっくり後ろ向きに下りなければならなかったし、ちょっと体に無理をかける、特に階段を上るだ けでハアハアいってしまっていました。」とバンティングは言う。
へ その緒が裂けてしまったり体にも故障が色々とあった。その上視力が落ちてきて耳も聞こえなくなってきているのに気づいた。耳の障害のためにその道の専門家 に掛かったが医者は大したことはないと耳を掃除し、外耳を水抜きをしたが全く効果がなく他の障害については一つも訊ねなかった。バンティングは、不満だっ た。この専門家に掛かる前よりも具合が悪くなっていた。
1862年8月 最終的に英国外科医師会の有名な研究員で耳鼻咽喉の専門医師ウィリアム・ハーベイに診てもらった。歴史的出会いだった。ハーベイ博士は、パリの学会で糖尿 病と腎臓の関与という新しい理論を著名な生理学者クロード・バーナード博士から聞いてきたばかりだった。バーナードは、腎臓は胆汁を分泌すると同時に腎臓 を通る血液からできた糖のような物質を分泌していると信じていた。ハーベイは、糖尿病に対する色々な食べ物の成分の働きについて考え始め、脂肪、糖、澱粉 の体への影響についてのあらゆる疑問に対する本格的な研究を始めた。
ハーベイ博士がバンティングに会ったとき聞こえが悪いことと同じくらい肥満に関心を持った、というのは一方が他方の原因になっていることを認めたからだった。ハーベイは、バンティングに食事療法させた。クリスマスの頃には、バンティングの体重は184ポンドになり、次の8月には156ポンドになった。
バンティングは、「あの頃は体が辛くてぐっすり寝ることがほとんどなかった」と言う。
ハー ベイの助言は「パン、バター、ミルク、砂糖、ビール、ポテトを止めなさい」と言うものだった。これには、脂肪になる可能性のある澱粉や甘みのあるものを含 み、一切摂ってはいけないといわれた。食べてはいけないものを言われたとき、バンティングはほとんど食べるものがないと思った。親切な友人が、実際にはた くさん食べられるものがあることを教えてくれたのでバンティングは喜んでこの療法を試してみることにした。数日の内にその効果が絶大であることを知ったと 言う。この療法で毎日6-8時間眠れてしっかり夜の休息がとれた。
バンティングが例外的な人であったことは今日の私たちにとっては幸いだった。例外的な人であったがためにこの奇跡的ダイエットを今日知ることができるのだ。1863年の5月、バンティングは自費で現在有名なハーベイの食事療法を記した「肥満の書(Letter on Corpulence)」の初版を出した。
このダイエットでバンティングは1862年の8月から1863年の8月まで毎週1ポンドずつ体重が減った。彼自身の言葉を借りれば「食事の量は自然な食欲に任せてよい。肥満を抑えて直すには食事の質だけが重要だと確信を持って言える」という。
「望ましい大切なものが最も簡単で気持ちの良い方法、以前なら緩すぎて危険だと思えるほどの食事法で手に入れられた」と続ける。
38週後には、20年来感じたことがないほど快適だった。その年の終わりには、聞こえるようになったばかりか、活力が旺盛になり46ポンド体重が減って胴回りが12.25イ ンチ小さくなった。彼は、この新しい食事法には全く不便を感じず、階段を前向きでゆったりと自然に降りられるようになり、階段を上ってから運動をしても全 く異常がなくなり、自分の仕事を何でもこなせる様になった。へその緒の裂傷もずいぶんと良くなって気にならなくなったし、視力も回復したし他にあった体の 不具合も良くなって過去のものになった。
バンティングの1862年以前の食事
朝食: パンとミルク又はミルクと砂糖がたっぷりのティー1パイント、バターを塗ったトースト
昼食: 肉、ビール、パンをたくさん(彼の好物)ペイストリー(練り菓子)
お茶: 朝食と似た内容
夕食: 通常果物のタルト、又はパンとミルク
ハーベイのダイエット
朝食: ビーフ、マトン、腎臓、網焼きの魚、ベーコンかポーク以外1の加工肉を4-5オンス、ティーを大きなカップに一杯(砂糖ミルクなし)、ビスケット少々か何もつけていないトーストを1オンス。
昼食: 鮭以外の魚を5-6オンス、ポーク以外の肉1、ポテト以外の野菜、何も塗っていないトーストを1オンス、プリンに使う果物、鶏肉か野生の鳥、良質の赤ワイン、シェリーかマデイラ(シャンペーン、ポートワイン、ビールはだめ)
ティー: 果物2-3オンス、ラスク焼き1-2枚、ミルクと砂糖なしのティー一杯
夕食: .肉か魚3-4オンス、昼食と同様、赤ワイン1-2杯
寝酒:グログをタンブラー一杯、ジンかウィスキーかブランディ(砂糖なし)又は赤ワインかシェリーをグラス一杯
1. ポークは当時澱粉を含んでいると考えられていて許されなかった。
2. バンティングには練り菓子が許可されなかった。
バ ンティングは喜んだ。これを達成するならどんな辛いことでもしたのだろうがもうそんな必要はなかった。このダイエットでは、たくさんの食べ物が許されてい たし続けるのも大変楽だったので、「以前だったら危険で健康へのとんでもない反逆だと思うような新しい食事法でこれほど健康に生きられたことは一度もな かったと誓っていえます」とバンティングは言っている。
今 回の食事リストは、これまでのよりも遥かに優れているといい「ありがたい効果とは別により豪華で量があるのだけれど、より健康に良いと証明された今、比較 することはばかげている。心身ともにずいぶんと調子が良いし、健康と快適さの舵を自分で握っていると信じられて嬉しいです。ただただ驚くばかりです。こん な僅かな期間にこれほどの変化を実現できる人に奇跡的にお世話になるように導いてくださった全能の神に感謝いたします。」バンティングが現在のやせ願望を 持つ人たちのように強い意志が必要なかったことと痩せるための食事が非常に楽に続けられたということは、この言葉から明らかである。
彼は更に医療の専門化が肥満の治療を良く知って、脳卒中で早死にするだろうと思われるたくさん人達が生きている間、心身のひどい虚弱に耐えなくても良い様にして欲しいと願っている。
バンティングの喜びようは大変なもので、ハーベィの診察料の他にハーベィの気に入った病院で分けて欲しいと350ポンド寄付した。それでも、彼は感謝してもしきれないと感じていた。1868年にバンティングは本当に人類に奉仕するための新しい施設ミドルセックス郡回復期病院(Middlesex County Convalescent Hospital)を作るために趣意書を公表し基金を設立した。
この施設は、経済的に苦しくて病院での苦しい試練から回復するまもなく仕事に戻らなければならない、したがって再発を余儀なくされている労働者階級の人達のためだった。
ウォルトン・オン・テムズに小さなホームがあった。小さいけれども十分目的に適っていると思った。運営するのに312,000ポンド/年必要だろうと見積もった。彼は、3,500ポンド寄付し、彼の息子が3,100ポンド、他に2人の家族が350ポンド寄付した。他の後援者のを合わせて35,000ポンド集まった。
バンティングは、最初の二版分については一銭も請求しなかった。利益のためだけにやっていると思われたくなかったのだ。初版は1000部作って全部人にあげた。第二版は1500部でこれも一部6ペンス掛かったがただであげた。第三版は、同じ1863年で一部1ポンドで販売した。
ダ イエットとその驚くべき結果を記したバンティングの小冊子が発行されたとき、内容があまりにも当時の学説と違うので医療関係者の中から激しい反論が巻き起 こった。「バンティング・ダイエット」は、激しい議論の中心となり、バンティングの文書や本は嘲られ歪められた。このダイエットが有効だったことは誰も否 定できなかったが、医療人達は自分達の社会的立場を守る必要を感じ、素人が発行したことに対して攻撃する必要を感じた。バンティングの論文は、「非科学 的」であるというそれだけの理由で批判された。
その後、ハーベィ博士にも困難がやってきた。彼には肥満に効果的な治療法があったが、それを説明する確信的理論がなかった。医療人であったこともあり、同業のものには攻撃しやすかった。彼はとうとう自分の診療ができなくなるまで大変な嘲りを受けた。
し かし、一般の人々は感動していた。絶望的に体重が多かった大勢の人達がこのダイエットを試したうまくいくことを知った。好むと好まざるとに関わらず、医療 人達は無視することができなかった。明らかに効果があるこのバンティング・ダイエットをどうにかして説明しなければならなかった。
救 いはシュトゥットガルトのフェリックス・ニーメイヤ博士からやってきた。考え方を完全に変えることによってこの新しいダイエットをなんとか受け入れ易くす ることができた。当時の理論では、炭水化物と脂肪が肺で一緒に燃やされ熱を発生することになっていた。この二つは「呼吸の食べ物」と呼ばれていた。バン ティングの論文を吟味してみて、ニ-メイヤは医者の問題の 答えが分った。医者にはタンパク質が肥満とは関係ないことは分っていた。呼吸の食 べ物である炭水化物と脂肪だけが肥満と関係がある。それで、「肉」が脂肪のない赤肉だけのものと解釈することにした。このわずかな変更で問題が解決した。 バンティング・ダイエットは、炭水化物と脂肪を制限した高蛋白ダイエットになった。この変更されたダイエットが歴史に刻まれ、今でも痩せるダイエットの基 本になっている。
た だ、バンティングのダイエットの記述は極めて明瞭だ。バターとポークの禁止以外、どこにも肉から脂身をとるとは書いていないし、調理の仕方や食べる量には 全く制限がなかった。砂糖と澱粉の炭水化物だけが制限されていた。バターとポークが拒否された理由は、当時これらが澱粉を含んでいると考えられていたから だった。
その後1878年に81歳で亡くなるまで身体的には快適に、体重は正常値を保ち続けたバンティングは、ニーメイヤー博士の改造ダイエットは彼の人生をこれほど変えたダイエットには遠く及ばないと言い続けた。。
バンティング・ダイエットは確かめられた。
バンティングの肥満に関する手紙(Letter on Corpulence) は広く読まれた。1890年代一人のアメリカン人医師ヘレン・デンスモアが、バンティングのダイエットをモデルにした。彼女自身と自分の患者が「パン、シリアル、澱粉質の食事を除くダイエット」でいかに最初の一月で10-15ポンド、その後毎月6-8ポンド落としたかを話した。痩せたい人への彼女のアドバイスは、「牛肉かマトンか魚を1ポンド/日と澱粉質のない野菜を適量摂れば、あまり動かない日常をおくる肥満な人には十分であることが分った。
デンスモア医師は、バンティングのダイエットを嘲笑う同僚の医師に容赦しなかった。「肥満を解消することで現在仕事をしていてバンティング氏のおかげで自分の繁栄を築いている専門家たちが、バンティング法を声高に非難している」と彼女は言う。
その後70年間に数カ国で多くの疫学的研究や臨床試験が行われて証拠が積み重ねられてきた。1950年代中期までに低カーボダイエットが効果があることに疑いの余地がなくなり、ロンドンのミドルセックス病院での臨床試験では、その効果を実証している。医師は、体重の多い患者に有益である証拠が山ほどあり楽にできて一生可能な食事療法を施すことができたはずだった。
だ が、そうはならなかった。食事療法家は、高カロリーダイエットなのに体重を減らせるという概念がどうしても納得がいかなかった。さもなければ、自分たちが 間違っていたこと認めると面目丸潰れになることを恐れていたのかもしれない。だから、体重が多すぎたらそれは自分の責任で食べ過ぎているか運動が不十分か その両方によるものだという近視眼的助言をし続けた。こうすることは療法家にとって楽なことだったが、患者の人生にとっては地獄だった。1970年代の後半には、脂肪に心臓病の原因である(現在では全く不正確であることが分っている)という汚名がついた。今日、脂肪は他の健康的理由で禁止され炭水化物が以前よりも強く推奨されるようになった。
だから、ほとんどの人がダイエットをしている 21世紀の幕開けのときにこれまでの人類史になかったほどカロリーを減らし脂肪を減らし、運動をしているのに人類史上かつてなかったほどみんな太っているのだ。
肥満がうなぎ登りに増えるのと、高炭水化物で低脂肪ダイエットを健康な食べ方として薦めているのは偶然の一致ではない。これはバンティングダイエットと全く逆である。
バンティングの肥満に関する手紙が発行されてまもなく「バントする」という動詞が辞書に加わり、体重を減らしている人達は「バントしている」というようになった。
スウェーデンのアップサラに住むジャン・フリーデンが私に言ったところによると、「バントする」は今でも体重を減らすための食事に一般的に使われているという。だから、スウェーデンでは、 “Nej, tack, jag bantar”つまり「けっこうです、バントしていますから」と言う。
また、バンティングは名詞として使われている。私たちも再度取り入れる事をお勧めしたい。
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